戦争は情報戦だといった話はよく耳にするが,それが常に秘密軍事工作といった影の存在とは限らない.通信手段の発達によってメディア報道が高速化し,国際世論の形成がより迅速かつ平等になった現代において,真の情報戦とは国民や国家に向けられたオープンな場が舞台であることを,本書は露わにする.
本書「戦争広告代理店」は,ボスニア紛争を影で操ったフィクサーが実は米国PR会社だったという衝撃のドキュメンタリーだ.クウェート侵攻後の1990年台において勃発した旧ユーゴスラビア地域における民族対立は,アメリカにとって石油利権も何もない辺境の地でのただの紛争の1つだった.唯一知られていることは1984年にボスニア・ヘルツェゴビナ共和国首都のサラエボで冬季オリンピックが開催されたことだけ.そのような状態のアメリカに,自国の支援を訴えてボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の一人の外務大臣が降り立つところから話は始まる.
何より本書の内容に驚きを覚えるのは,紛争という国家間の衝突に民間会社が介入していることだろう.それも政治の中枢にまで入り込み,必要とあらば国連での国際会議の討論原稿すら書き上げるような,そんな民間PR会社が存在することだ.そしてそれがボスニア紛争の世論形成にどれほどの影響力を及ぼしてきたかということに尽きる.それが奇しくも,民間PR会社の協力を得られたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国側と,民間PR会社の協力が得られなかったセルビア共和国・ユーゴスラビア連邦側の2局にきれいに分かれたということも,民間PR会社の実力を如実に示している.
結果的に世論は,モスレム人(ムスリム)を中心としたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国が,セルビア人を中心としたセルビア共和国に弾圧されているという構図となった.善と悪,弱き者と強き者といった単純な構造を世論は好む.民間PR会社はこの対立構造を巧みに作り上げ,顧客を悲劇の主人公に仕立てあげたということだ.唯一言えるのは,この紛争に対するアメリカの世論が,メディアによる公正な報道と法のもとでの正義によって自然に組み上がったわけでは決して無いということだろう.
著者は本書の最後で,今回の取材の総まとめとしてのボスニア紛争について「どちらにも責任がある」とした上で,PRの重要性とその効果,情報操作の倫理的側面について考察している.いくらマスコミの偏向報道が悪い,情報操作は良くない,正義は中立であるべきだ,といった綺麗事を並べても,世論自体がそれに答えてくれるわけではない.本書で描かれるような事実をもとにして,如何に自分を中心としたコミュニティが成功を収めるか,そのことについて真剣に考えていかなければならない.