これほどまでに背筋が凍るほどの恐ろしさを感じながらも同時に文章から目を離さずにはいられないくらい引き込まれるような本を,いまだかつて私は読んだことがない.本書はある心理学の実験についての報告と結果の考察を淡々と述べたものでありがながら,そこから導かれる結論は私たち人間の隠れた性質を暴くものである.それは20世紀のある歴史上の事件と対になって初めて本質をあらわにする.ナチスドイツにおけるユダヤ人虐殺である.

本書は,「アイヒマン実験」または「ミルグラム実験」と呼ばれる心理学実験に基づく実験報告である.この通称は,アドルフ・アイヒマンというナチスドイツによるユダヤ人虐殺に深く関与した人間の名前,またはスタンレー・ミルグラムという本実験を行った心理学者に由来する.アイヒマンとこの実験を深く関連付ける要素は「服従」である.人というものは,何らかの社会構造における上下関係の中で社会的な役割を果たすことにより,その地位であったり家族の生活やアイデンティティを維持する.そのなかで,権威があって立場が上の人間によって命令された倫理を逸脱する非道な指示に対して,それを受け入れ服従するか異を唱えて反発するかといった個人の葛藤が,この実験の中心的な問題である.アイヒマンという人物は,このような命令に服従し実行してしまった張本人として歴史に名を残し,この議論の中核的な存在となった.そのアイヒマンに対して当初は誰もが,通常では考えられないほどの非人道的な行為を行う人間は,常識的な社会生活を行う自分たちとは全く異質のかけ離れた存在であるかのように思っていた.しかし,本書の著者であるスタンレー・ミルグラムは,アイヒマンは特殊な人間ではなく普通の一般人と何ら変わらない人間であり,逆に言えば一般人と認識している人間もまたアイヒマンと同じ境遇に置かれると同じ行為を犯してしまう可能性があることを心理学実験によって示した.

本書はスタンレー・ミルグラムの衝撃的な実験結果を示すものでありがなら,同時に本実験に対する異論や反論を訳者である山形浩生が訳者後書きとして巧みに指摘している.その批判的検討を含め,本書が描き出す権威の服従という問題は状況や立場によって複雑な挙動を示し,一個人の責任や従属関係について改めて提起するものである.