科学研究は得てして価値や有用性が厳しく求められるものだが,逆に必要であると分かっていながらも倫理的な制約や生理的嫌悪感によって,あまり活発に研究されない/できない分野というものも存在する.本書著者の専門である法医学は,その代表例と言っても過言ではないだろう.本書「死体入門」では,法医学という一分野を飛び越えて,生物の死体について様々な側面から分析し,死体というモノの定義や科学的な利用例などに迫る「死体の解説書」である.死体を観察することで,生物の成り立ちや医学的知見,人間の文化までもが見えてくる.

本書は死体にまつわる,ありとあらゆる内容を含んでいる.そのため雑多でトリビアルな話題も多いのだが,本書はおおまかに分けて4つの内容から構成されている.

  • 第2章「人が死ぬということ」
    • 生物としての死体の誕生,腐敗の過程,白骨化に至るまでの詳細な変化
  • 第3章「ミイラに込めた願い」
    • 世界中の様々な文化に共通するミイラの文化と製作技術
  • 第4章「死体をとりまく世界」
    • 現代における死体の処理方法
  • 第5章「死体の利用法」
    • 死体の科学的利用(法医学・解剖学・人類学など)

その中でも本書の一番の見どころといえば,本書をぱらぱらとめくって一番始めに目に飛び込んでくる九相詩絵巻のカラー写真だろう.14世紀の鎌倉時代に描かれたとされるこの作品は,生前の1段階と死後の9段階にわたる死体の変化を追ったものだ.おそらく複数の死体をモデルとして描かれたとされており,記録として描かれたわけでも科学的研究として描かれたわけではないにも関わらず,細部に至るまでリアルに描写されている.本書ではその九相詩絵巻の各相をもとに,死体の腐敗過程が現代医学の知見をもとに語られる.それぞれの相は,以下のような変化をたどっていく.死体となってもなお続く体内の生化学反応により様々な生体の変化が生じ,体の表面には色や模様が浮かび上がる.腐敗により生じる臭いによってハエが集まり,その他にも動物や昆虫が群がる.肉が腐り食べられて骨だけになっても,イヌやネズミなどがそれを齧り利用する.そして最後には土に還る.このような連続的な変化を切り取ったのが九相詩絵巻である.この絵を鑑賞するということは,現代においてむしろ非日常となった死体の変化を感じることができる限られた手段であり,死体への興味や知識を養う上で非常に重要な役割を果たす.

そういえば,前回紹介した「コード・ブルー―外科研修医救急コール」の中でも,近年では遺族に対する配慮や検査機器の発達から,検死が行われる頻度が極端に下がってきていることが懸念されていた.検死が行われないことの一番の問題は,誤診や治療ミスが見過ごされる可能性があることだ.この本では,死因の特定と医療行為の正当性の判断は医者の育成においても重要であるとういことが語られていたが,死因が一見明らかな遺体の検死を行うことは,心情的な面のみならず実情からくる制約もあって,やはり難しいようだ.

私としては正直に言って,本書でいくら死体に関する知識を深め重要性を理解したとしても,人間の死体を目の前にしたときに感じる感情や倫理的な懸念は薄れないだろう.ただし,感情はコントロールできなくても理論的な判断になら,本書の情報は非常に有用になるはずだ.死体に関する感情的な側面と理論的な側面を区別しさえすれば,どのような人にとっても本書を大いに楽しむことができると思う.感情に隠れているだけで人間だれしも興味はあると思うので,本書の内容のどこかにはぐっと引ここまれる部分があるはずだ.