ヤマザキパンはなぜカビないか」という有名な話がある.保存料無添加を謳っているヤマザキパンと家庭で作った手作りのパン,どちらが先にカビるだろうかという問題だ.正解は家庭で作った手作りのパンの方.なぜなら手作りでパンを作った場合では,どうしてもカビがパンの表面に付着したり中に入り込んだりして増殖しやすいからだ.その点ヤマザキパンのパン工場では,非常に清潔な環境でパンが作られているため,カビが入り込む余地がない.これは実験でも確かめられている事実だ.だが,その問題の本の著者を含め,健康に人一倍敏感な人は解答こそ正しくとも「いや,それはヤマザキパンに保存料が添加されているからだ」と見当違いな主張をしがちである.なぜそのような間違いをするかというと,カビないのはパンに含まれてる何かが原因だとして理論展開していくからだ.上の逸話を書いた方は,これらの議論に欠けているのは量の問題だとし,食品の安全について的確な意見を述べている.

しかし,この話には量の問題以上に,より根本的で難しい問題を抱えている.それは前提条件・データを信じていないことだ.保存料の有無はここでは前提条件として提示されており,同時に科学的なデータでもある.まず冒頭でヤマザキパンには保存料が入っていないと言っているのに,間違えた考え方をする人はヤマザキパンに保存料が添加されているはずだと決めつけてしまう.これは客観的に見れば明らかに言いがかりだ.ヤマザキパンに対して,いいやそれはパンじゃなくてご飯だ,と言っているのと何ら変わらない.ここでは保存料の入っていないパンと言っているのだから,そのパンにレーズンが入っていようとジャムが入っていようと,保存料は入っていないことには間違いない.そこをきちんと抑えておかないと,間違った考え方に走って前提を無視した論調になるのだ.ただ,こういう考えに至るプロセスは分からないわけではない.昔は保存料が入っていたかもしれないし,実は嘘をついてこっそり保存料を入れているかもしれないと疑うのは人間の性だ.ただ,この場合においては素直に前提を受け入れるべきだし,自分の導きたい結果から類推して前提をねじ曲げるのは論理的・批判的な姿勢ではない.

教訓としては,前提条件を自分で勝手に解釈してはいけない,与えられたデータはその通りに受け取るべきだ,ということだ.


今回の例では少し思考実験みたいな形を取ったので,上のように分かりやすい形で問題点が顕になったが,実際の科学的な議論ではこの問題が複雑になりやすい.それは前提条件やデータがはっきりと正しいとは言い切れなかったり他人の意見を元にしている場合だ.データを示してきちんと論理を組み立てたとしても,データ自体を攻撃されることは防ぎようがない.それが再取得可能であったり再現実験できるようなものであれば攻撃に対処できるのだが,大抵はそれが難しい.

山形浩生の「訳者解説」に収められている訳者あとがきの中で,これに関連した話がある.山形浩生が訳した地球温暖化に関する本の中で,ホッキョクグマの個体数の経年変化において一般的な想定とは違った傾向を示しているデータがあるのだが,その本の著者はそのデータを元に話を進めている.山形浩生はそれを変だと思い,自分ならデータの中で一部明らかに怪しい部分は信用しないと言っている.その疑問に対する著者自身の解答は,以下に引用したとおりだ.なお,ロンボルグとは原書の著者のことである.

しかしながら、それはあくまで考え方のちがいだ。この点をロンボルグに尋ねると、かれとしてはそうした恣意的なデータの取捨選択はすべきでないとの回答だった。ぼくたちはホッキョクグマの専門家じゃない。データを集めて発表しているところは、一応それなりに一貫性を持ってデータを出している。それについて見る側が自分の勝手な解釈にしたがって、元データをいじるべきではない、という。それをやるのはデータの改ざんだ、と。確かに、それは一理ある。そこから導く結論はもう少し慎重であってもいいとは思うけれど。

訳者解説 -新教養主義宣言リターンズ- (木星叢書)」(p.213)

つまりこの本の著者としては,取り敢えずはデータを信じようよ,素人の解釈でデータをいじるのは改ざんに他ならないんだと言っている.データは確かに怪しいかもしれないけれども,そこは恣意的なデータの取捨選択をしてはいけないというスタンスであり,これこそまさに最初の逸話であった保存料無添加の前提を信じる信じないの話と根っこの部分は同じなのだ.


だからと言って,この方法を徹底するのはやはり難しい.全てのデータを並べて公平に議論できるわけでもないし,明らかな外れ値などは補正しないとどうしようもない場合もある.単純な思考実験だと容易に論破できるものでも,実際の議論では通用しないことがある.ただ,原則としてこの方法を守ることは非常に重要だ.まずはこの規範を元にして,そこから許容できる範囲内でどれだけ規範を超えられるかが問題だろう.その点,許容できる程度やそのやり方は非常にシビアであり,意見の別れるところだ.僕としては,基本的にデータを信じるべきだしデータの不備は違うデータによって補うべきだと考えているが,うーん,難しい.


(なお,この文章では冒頭の逸話に則って清潔な製品としてのパンをヤマザキパンと言っており,山崎製パンの実際の商品とは何ら関係がないことを付け加えておく.)