電車の中で女の子が「コンピュータの数学」を読んでいるという一つの奇妙な物語のことを,当時リアルタイムで読んでいた私もよく覚えている.Webサイトに掲載されている数学の面白い文章があるというだけで,知的好奇心を満たす手軽な読み物として楽しんでいた.それが将来「数学ガール」シリーズとして,確固たる地位を確立するとは思わなかったが….
本書は,「数学ガール」シリーズの著者である結城浩氏が行った2つの講演を元にしている.一つは公立はこだて未来大学での教員と学生を対象にした講演,もう一つは編集者などを対象にした勉強会で,そのどちらも数学ガールというヒット作が誕生した経緯や作品への取り組みがテーマである.例えば,そもそも著者が自分のWebサイト上で個人的に書き始めた短編がきっかけであること,元々シリーズになる予定は無くタイトルに連番を振るのをためらったこと,ゲーデルの不完全性定理を書くことを反対されたことなどなど,数学ガールの歴史を紐解きつつ,その裏舞台を紹介してくれる.それと同時に,なぜこのようなヒット作となったのか,数学という難しいとされる題材を高校生の物語に乗せて見事に描き切ったのかといった秘訣について,著者が自己分析をしている興味深い内容となっている.そういった一連のシリーズの歴史を通して,出版であったり教育に対して結城浩氏がどう捉えているのかを垣間見ることができる.
詳しい内容は本書を読んでいただくとして,恐らく根底に流れるスタンスは一貫して「読者のことを考える」ということだろう.では,読者とは誰か,どういった人を対象にするのか,その人が作品を向き合ったときに何を考えるのか,何を知りたいのか,どう理解していくのか,そういったことを突き詰めていった結果がこの「数学ガール」シリーズなのだという.だから,そもそも最初の読者である自分が理解していないことは書けないし,一方で数学者とは異なる視点から一般の人に向けた数学の体系を描くこともできる.そういった執筆の背景を理解すると,「数学ガール」シリーズを読み進めていくときの心地よさであったり,理解へと繋がる一瞬の感覚の理由というものが理解できる気がする.
著者曰く「物理ガール」や「情報ガール」は,自然科学や工学に根ざしているという理由でちょっと難しいそうだ.二匹目のドジョウは難しいかもしれないが,人に教えるという行為について本書から学べることはたくさんあるだろう.また,数学ガール自体のファンにとっても,数学ガールの漫画化であったり海外展開の話,そして最初に書いた「コンピュータの数学」にまつわる短い読み切りなどなど,十分に楽しめる一冊となっている.