「ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争」の高木徹氏の2014年の著作.前作は1990年代のボスニア紛争を題材にした作品だったが,今回はその後の21世紀に起こったテロリズムの台頭とメディアを取り巻く情報戦について書かれている.前作と比較して全体的に情報の厚みが薄く物足りない部分も見受けられるが,それでも著者ならではのポイントを抑えた簡潔な解説を読むことができる.

本書冒頭は「戦争広告代理店」のおさらいといった立ち位置で,ボスニア紛争での民間PR会社の影響力を振り返るというもの.当時の取材時の印象であったり後日談的なものが少し加えられている.そしてその次に取り上げられる題材が,オサマ・ビン・ラディンとアメリカの対テロ戦争である.そもそものオサマ・ビン・ラディンがいかに情報戦に優れていたか,そのオサマ・ビン・ラディンが殺害された後の主導者不在の中でのテロリズムの変化,それらと対峙してきたアメリカの政党や大統領候補同士での情報戦などが語られる.この時代の情報戦では,ボスニア紛争で登場しなかったインターネットであったりSNS,動画共有サイトなどが登場し,TV放送局のグローバル展開も相まって,情報戦はより一層複雑化する.例えば,アルジャジーラというカタールの国際衛星ニュース局が,イスラム過激派による映像を頻繁に放送していたことはまだ記憶に新しいが,このメディアをうまく活用したのがオサマ・ビン・ラディンだったという.一方でアメリカも,メディアをうまく活用した情報公開の戦術によって,オサマ・ビン・ラディン殺害の正当性を主張したり,オサマ・ビン・ラディン自体の神格化を防ぐように悪いイメージを植え付けるようなことを行ったとされる.

本書で出てくる個々の事実は日本でもニュースで放送されるものばかりだが,本書のような専門家の見る目をもってして解説されると,その本質が見えてくる.ではそういった情報に私たちはどう向き合っていけばいいのか,高木徹氏は本書あとがきでこのように述べている.

問題の解決は、私達一人一人情報の受け手に託されている。自分のもとに届く情報が、そこまでにどのような「情報戦」をくぐり抜けてきたかを考える。それを続けていれば、自分なりの真実と世界観を自分の中に形成できるようになる。それをまた他の情報と比較して検証してみる。

「国際メディア情報戦」の時代を生き抜くには、そのようにして情報戦そのものを「楽しむ」ような余裕とタフさが必要なのではないかと私は考える。

国際メディア情報戦 (講談社現代新書) (pp. 258-259)

本書も含め,真の意味で中立な立場で解説してくれる人は誰もいない.他人からもたらされる情報は常に他人の思想や立場によって切り取られ加工されたものであることを強く意識して,身の回りにあふれる情報と向き合っていかなければならないと思い知らされる.



戦争は情報戦だといった話はよく耳にするが,それが常に秘密軍事工作といった影の存在とは限らない.通信手段の発達によってメディア報道が高速化し,国際世論の形成がより迅速かつ平等になった現代において,真の情報戦とは国民や国家に向けられたオープンな場が舞台であることを,本書は露わにする.

本書「戦争広告代理店」は,ボスニア紛争を影で操ったフィクサーが実は米国PR会社だったという衝撃のドキュメンタリーだ.クウェート侵攻後の1990年台において勃発した旧ユーゴスラビア地域における民族対立は,アメリカにとって石油利権も何もない辺境の地でのただの紛争の1つだった.唯一知られていることは1984年にボスニア・ヘルツェゴビナ共和国首都のサラエボで冬季オリンピックが開催されたことだけ.そのような状態のアメリカに,自国の支援を訴えてボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の一人の外務大臣が降り立つところから話は始まる.

何より本書の内容に驚きを覚えるのは,紛争という国家間の衝突に民間会社が介入していることだろう.それも政治の中枢にまで入り込み,必要とあらば国連での国際会議の討論原稿すら書き上げるような,そんな民間PR会社が存在することだ.そしてそれがボスニア紛争の世論形成にどれほどの影響力を及ぼしてきたかということに尽きる.それが奇しくも,民間PR会社の協力を得られたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国側と,民間PR会社の協力が得られなかったセルビア共和国・ユーゴスラビア連邦側の2局にきれいに分かれたということも,民間PR会社の実力を如実に示している.

結果的に世論は,モスレム人(ムスリム)を中心としたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国が,セルビア人を中心としたセルビア共和国に弾圧されているという構図となった.善と悪,弱き者と強き者といった単純な構造を世論は好む.民間PR会社はこの対立構造を巧みに作り上げ,顧客を悲劇の主人公に仕立てあげたということだ.唯一言えるのは,この紛争に対するアメリカの世論が,メディアによる公正な報道と法のもとでの正義によって自然に組み上がったわけでは決して無いということだろう.

著者は本書の最後で,今回の取材の総まとめとしてのボスニア紛争について「どちらにも責任がある」とした上で,PRの重要性とその効果,情報操作の倫理的側面について考察している.いくらマスコミの偏向報道が悪い,情報操作は良くない,正義は中立であるべきだ,といった綺麗事を並べても,世論自体がそれに答えてくれるわけではない.本書で描かれるような事実をもとにして,如何に自分を中心としたコミュニティが成功を収めるか,そのことについて真剣に考えていかなければならない.



企業向けの情報誌「現代産業情報」を刊行し,兜町の石原と呼ばれた情報屋である石原俊介を追ったノンフィクション作品.彼と親睦の深かった同業者の著者が,石原俊介が生きた時代に起きた平和相銀事件やリクルート事件などの政官財を巻き込む事件を中心に,その仕事の軌跡を紐解いていく.

そもそも私に本書を読むためのバックグラウンドが無いのは当然といえば当然で,本書に登場する平和相互銀行をはじめとした数々の銀行の名前は,私が物心付いた頃にはもう既になくなっており,かろうじて現在の大手銀行の名前に名残があるくらいだ.当然ながら,そういった銀行が起こしてきた事件はそもそもあったことすら知らなかった.そういう状態で本書を手に取ったものの,自分の知識不足を感じることはほとんどなかったと思う.事件の概要から始まり,中心人物たちの経歴,まだ総会屋が活躍し暴力団が今ほどに影を潜めてなかった時代の世相,そして石原の仕事とその役割など,そういった事件を多面的に理解するための材料はひと通り本書の中に揃っていた.そもそもが業界の裏を書いたノンフィクションであり,他の読者も私と同様に知識を持ち合わせていない人が大多数なのだろう.そういう意味で,読者を選ばないような丁寧な解説ぶりが印象に残る.

一方で,あまりに自分の世界とかけ離れていて想像が及ばない部分もある.そもそもの高度経済成長期からバブル崩壊までの日本,情報誌というものが重宝された時代,そして政官財の世界.過去のことだと割り切ってなかば昔話として考えることも可能だけれども,とりあえずはいままで見聞きしたことや本書を読んで学んだことをもとに再構築していくしかない.

ただそこに存在した情報屋の価値は,今でもはっきりとわかる.インターネットで様々な情報が瞬時に手に入る時代だからこその,生の情報の大切さ.新聞やマスコミの偏向が明らかになるほどに,情報というものがいかに不確実なもの,一つの側面を映し出したにすぎないということがわかってくる.そういうときに,石原俊介のような情報屋が,利害や契約関係を超えて情報誌として告発や批判記事を公開することや,相談役としての企業へのアドバイスが重宝された理由というものがわかる.と同時に,それが並大抵の人では不可能なほどに難しく,稀有な存在であったことも事実だ.本書では石原がそれを成し得た理由というものが各所で考察されるが,彼の卓越した情報処理能力や立場を限定しない取材態度,銀座のクラブを起点とした情報のハブとしての役割など,その仕事術の一端を垣間見ることができる.

個人的な経験として,インターネットに本格的に触れ始めた時に叩きこまれた教訓として「情報というのもは自ら発信することによって集まってくる」ということがある.本書はある意味でその教訓をまさに体現する1冊として,興味深い内容だった.



本書はむしろ確率論・統計学の科学史についてのライトな読み物だ.著者は本書のことを「確率や統計の教科書にあるようなコラムをまとめて1冊にした本」のように言い表しているが,そういった欄外の豆知識にとどまらない,科学史としての体系だった内容になっている.

本書は基本的に確率や統計にまつわる逸話をもとにして,その背景にある数学的な理論であったり,数学の一分野として発展してきた歴史やそれを支えた数学者を紹介するという流れになっている.例えば「サイコロを4回振って6の目が1回以上出る確率と,2つのサイコロを24回振って6のゾロ目が1回以上出る確率をそれぞれ求めよ」(本書P.25より)といった具体的な問題から,当時の天才数学者のだれそれが分野の発展に一役買っただとか,数学者の名前が付けられた定理や手法は数あれど実際に初めてそれを発見した人物の名が付けられていない場合が多いといった逸話などが,本書題名にある通りいくつも盛り込まれている.

取り扱う確率や統計の内容だって.そこいらの教科書に引けを取らない充実ぶりだ.むしろ本書は歴史的経緯や逸話と絡めて紹介されるぶん,教科書よりもはるかに分かりやすいところも多い.例えば,母関数とジッシャーマン・ダイスの例なんてのは目から鱗だった.それこそ教科書では何故そのような関数が出てくるかなんて分からなかったから,実際の使い方を見ることで私はやっと腑に落ちた.具体的な内容はぜひ本書を読んでもらいたい.そういった点で,確率や統計について既に知識がある人でも,どれだけ勉強してもいまだに苦手意識が拭えない人にとっても面白い内容だと思う.

確率や統計の科学史に関する読み物だと「統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀」や「異端の統計学 ベイズ」があり,本書後半でもたびたびこの2冊の内容に触れている.ただし,これらの本はかなり分量があり,この分野に関する前提知識もそれなりに要求される.その点本書は基本的な部分についてもその都度きちんと解説が入るし,解説を読み飛ばしたとしても問題ないようになっている点で,気構えず読み進められる1冊となっている.



Lassoの発音

今までLassoはラッソだと思っていたのだけれども,どうやら違うらしい.YouTubeにある幾つかの動画で確認してみると,ラッソというよりかはラッスーに近い.無理矢理カタカナで書くと「ラッスゥー」で,スにアクセントがある感じ.

実際の発音は以下の動画で確認できる.発音している箇所に動画再生ポイントを合わせてあるので,聞き逃しに注意.

ちなみにこれはThe Elements of Statistical Learningでお馴染みのHastie&Tibshirani先生の動画.

他にも幾つか確認してみたが,同様の発音だった.

実際にはどちらの発音もある

ただし,オンライン辞書で調べてみると,どうやらどちらの発音もあるらしい.British Englishだと「ラッスゥー」,American Englishだと「ラッソ」,と発音しているようだ.なので厳密にはどちらでも間違いではないけれども,機械学習の文脈で発音するときには「ラッスゥー」が無難かもしれない.