「数学ガール」などで知られる結城浩氏による,数学における文章の書き方を解説した本.といっても,「数学ガール」の書き方指南というわけではなく,論文やレポートなどの形式化された文章を対象としている.一言で言うならば,義務教育時代の数学の問題でよく見かける文章を想像してもらえば良いだろう.数学を対象にしているのだから文章なんてものは厳密に書けばそれで良さそうに思えるのだけれども,実は様々な配慮や文章テクニックがあって初めて,正確かつ分かりやすい文章を書くことができる.そのような技術や決まり事,よく用いられるパターンなどが解説された本が,この「数学文章作法 基礎編」である.

本書は一貫して「読者のことを考える」という原則が繰り返し語られる.それは,読者に著者の考えを伝えるためであることと同時に,著者の自己満足に陥らないためでもあり,正確な文書を書くためでもある.この原則を踏まえて,読者の知識や意欲,目的を考慮し,文書の向こう側にいる読者をうまく導く必要があると結城浩氏は述べている.具体的なテクニックは本書にたっぷり収録されているので実際に本を読んでいただくとして,では「読者のことを考える」というのはつまり読者に何をすればいいのかについて,この本の中でしっかりと強調されている.これも結城浩氏の言葉を借りるならば,

読者の驚きを最小にするように書く

数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫 ユ 4-1 Math&Science)」 (P.69)

ということである.大抵の読者というものは,文章を読み始める前は何も知らない素人でありながら,文章を読み進めていくうちに次々に内容を学習して理解していく.読者の頭の中では,次には何が来るか,一般化するとどうなるか,前の章とのつながりがどう見えてくるかといった解釈が展開され,次への準備が着々と進んでいく.それに対して著者は,うまく誘導することができればより読者の理解に繋がるのだが,流れに逆らったりノイズで撹乱してしまうと,読者はたちまち混乱してしまう.「読者の驚き」というのは,読者の頭のなかでの理解と著者が伝えたい解釈とのギャップなのだ.このギャップが小さいほど読者は驚きが少なく,自分の理解が間違っていないのだと安心して読み進めることができる.つまり,読者が文章を理解したいという前のめりの姿勢に合わせて,著者が次の一歩を提示することが重要であるということだ.「読者のことを考える」とは,「読者の驚きを最小にするように書く」ということであり,読者と著者の歩調を合わせるということに他ならない.それが本書の目指す文章の作法である.

といったような抽象的なことを長々と書いてしまったが,本書では非常に簡潔にわかりやすく文章の書き方が解説され,具体例も豊富に掲載されている.まだ文章の書き方に慣れていない大学生くらいには是非ともオススメしたいとして,こういったタイプの文章を読む側の人にとっても,本書の技法を覚えておくことで読書がより快適になるだろう.というのも,文章の構造を知ることで重要な部分だけを把握し,あとは読み飛ばすことができる.本書では読者を理解することで自分の文章にフィードバックさせているが,逆に著者を理解することで自分の読書にフィードバックすることができる.本書の解説とは真逆のことながら,これも非常に重要なテクニックだと思う.



ご無沙汰しております.前回の投稿からかなり間が開いてしまいましたが,色々と忙しくしておりました.主に来年度の所属に関してバタバタとしていたのですが,先日ようやく決定して一段落しました.

ということで,今年の4月から奈良先端科学技術大学院大学(NAIST)の情報科学研究科・修士課程に入学することになりました.数年前に専門を変えるべく大学院を中退して以来,某所で働きつつ大学院に入り直す機会を伺っていたのですが,ようやく次が決まって再出発という感じです.その後については殆どなにも決めていないという状態ですが,取り敢えずあと数年はアカデミアに留まって研究という形となりそうです.そんなこんなで年度末これからも慌ただしい毎日で更新頻度は相変わらずだとは思いますが,これからもよろしくお願いします.



たまたまスティーブ・ジョブズが作ったMacintoshシリーズの記事を見てたら,だいぶ昔に実家にあったClassic Macのことをふと思い出した.私はその頃ちょうど小学生から中学生にかけての年齢で,インターネットもプログラミングもキーボードでローマ字入力する方法すらも分からず,Macに触るといっても単にマウスを使ったゲームで遊ぶくらいだった.それでも,Macが起動するときに画面下にアイコンが順に並んでいく様子はすごい好きだったし,ファミコンよりもClassic Macのゲームで遊んでいたと思う.

そんなことを思い出して懐かしんでいたら,そのときに遊んでいたゲームをもう1回見てみたいという気持ちになり,ふと昔の記憶を頼りに探してみた.

覚えている情報は,

  • Mac OS 9時代で遊んだPCゲーム
  • 熱帯魚を操作して生き延びるゲーム
  • サメが一番強い
  • ホンソメワケベラに体を掃除してもらう
  • 3x3の9画面ある

という程度だったのだが,どうやら「Odell Down Under」というゲームらしい.だいぶ昔のゲームなので情報が少ないものの,プレイ動画などを見る限りでは間違いないと思う.


資料や動画を見て思い出したこと

  • 魚はいろんな種類が選べる

    • 選ぶ魚によって,食べられるものと食べられないものがある
    • 基本的に自分より小さいものを食べる
    • 小さい魚はプランクトンや海藻,サンゴ,無脊椎動物などを食べる
    • サメやエイなどは大きな魚も小さな魚も食べられるが,体力の回復量に差がある
    • ホンソメワケベラだけは例外で,他の魚の皮膚をつついて掃除をする
  • 生き残るためには,体力と健康の2つを維持する必要がある

    • 体力は,エサを食べることによって回復する
    • 健康は,その辺に泳いでいるホンソメワケベラを探して体を綺麗にしてもらう

資料や動画を見ても思い出せないこと

  • サバイバルやトーナメントみたいなゲームシステムが複数あったこと
  • 魚図鑑みたいな画面があったこと
  • 食べるときにいちいちポップアップが出ること
  • 時間の概念(昼と夜)があったこと

まあこれらは恐らく英語が分からなかったから,単に親に教えてもらって同じことばっかり繰り返していたからだろう.


それにしても,今回調べてみたことの最大の成果は,この「Odell Down Under」がEducationalなゲームだということだ.多分親が買ってくれたんだろう.まあ実際に訊いてみないと真偽は分からないが,ゲームのことを懐かしく思うと同時に親に対する感謝のようなものも感じられて,調べてよかったと思った.

いやー,それにしても懐かしい.サメまじ強い.



すべてのモノはあなた自身を表現している

あなたが持つ全てのモノは,あなたの所有物でもあり,同時にあなたという存在を形作る要素でもある.あなたを除くすべての人間は,あなたという存在を認識する前に,その要素のひとつひとつを見てあなたの性格,癖,自分との相性,そして人生までをも想像する.すなわちモノはあなたの身体の延長線上にあるあなた自身であり,私たちが箸を持って食事をする際に箸の存在を意識せず体の一部として操ることができるのと同様に,あなたが持つすべてのモノはたとえ意識せずとも体の一部として機能しているのだ.今あなたが身に着けている衣服から装飾品,普段から使っているカバン,仕事道具であるペンや紙,電子機器,使い捨てのポストイットに至るまで,すべてあなた自体を構成している小さな部品であり,あなたの全てを表す重要な役割を担っている.

それにもかかわらず,わたしたち多くの人はその細部に気を使わない.たまたま近くで売られていたからといって適当に選んだ文房具を使い,妥協して手頃な値段の携帯電話を使い,着古したお気に入りの服をあたかも新品のように身につけては人前に出ていく.それらの使い勝手や機能に少しは気にかけていながらも,それはただの消耗品としてしか認識せず,無意識に自分とは関係ないモノとして扱われている.改めてモノと自分の関係性を意識するときは,長年愛用し続けたモノを人に指摘された時か,もしくはゴミ箱に捨てる時だけだろう.それでもまた時間が経てばすぐに忘れてしまう.

人々は何故そのことを薄々気付いていながらも,大事にしないのだろう.些細なことだと切り捨てているのかもしれないし,意識していても妥協してしまうのかもしれないし,時には選択肢がないからかもしれない.その理由は色々とあるけれども,一概にすべてを非難することはできない.仕方がなかったこともあるし,逆にそれが有利に働いたこともあるだろう.ただ,多くのケースはもっと良い方法があったんじゃないかと言っても過言ではない.気付けばあなたは不要なモノに囲まれて身動きがとれなくなっているのだ.

じゃあどうすれば,そのしがらみから抜け出すことができるのだろう.身の回りのもの全てを,自分のお気に入りであるとか自分の1番と思えるものに揃えてしまえばいいのだろうか.考慮できるすべての選択肢の中から,最良と思えるモノだけを揃えればいいのだろうか.そう考え始めると気が遠くなるほど大変な作業に思えて,いつまで経っても完成しない美術品や建築物のように思えてくる.

逸話は理由になる

しかしこれを手っ取り早く簡単に解決する方法がある.何かを買うときには必ず逸話をつけるのだ.何から何まで,あなたが買ってあなたが使うものには,それなりの理由がなければいけない.買う理由と考えると途端に難しく感じるが,逸話程度なら何か作れそうな気がするだろう.ただそれだけでいい.今まで通りの適当な買い物をしたって構わない.ただし,一つ買うものをするたびに必ず一つ逸話をつけるようにする.気の利いたことを考える必要はない.「とっさに入った店で思わず手に取った」とか「どうしても好きな色が入ってるやつが欲しかった」程度のことでもいい.そのことを意識して覚えておくだけで十分だ.そして,モノを使うたびにその逸話を思い出したり,とっさに人に説明できたり,話を始めるときのキッカケとして使ったりできれば最高だ.そうすると自然とモノに対して意識がいくようになる.そして気がつけば,それはあなたを形作る大切なパーツになる.「とっさに掴んだ安物をいつまでも使い続けているんだ」と言えば,それだけであなたが物持ちが良いということが分かるし,同じ色のグッズを身の回りに多く置いておけば,あなたを連想させる色として機能するだろう.

たとえば私の場合,日頃使っているペンは全て同じメーカーの同じ型番に統一している.どこの文具屋にも売っているような安い三色ボールペンだ.それが家のペン立てにも職場のペン立てにも,カバンの中のペンケースにも入っている.そうしていると,いかなる状況においても常に同じ書き心地で文字を書くことができる.これは人に教えてもらって実践していることだが,これが結構便利で気に入っている.そういう理由があるからこそ,私が次に買うペンも今までと同じモノを買うことになるだろう.これはもちろん後付けだから最初から意識していたわけではないし,最初は私も意識せずに使ってた単なるボールペンだった.でもそれは今では愛用品になっている.これが私が持っている逸話であり,私の一部として自然と取り込まれている.

だから,あなたが次に買い物をするときには,まず第一に慎重に選ぶ.次に,あなたがそれを選んだ理由として必ず逸話を作ろう.そしてそれをしっかり記憶しておくのだ.そうすれば,いつか身の回りにはあなただけのオリジナルあふれるモノでいっぱいになっていることだろう.個性なんて考える必要は無い.ただ逸話をいっぱい集めればいいのだ.



以下の記事は,Hatena Blogのキャンペーンに投稿するために書いた文章の転載だ.せっかくなので,このBlogにも貼り付けておく.何度も見返したほうが日頃から意識できるしね.

お金を払って人に教えてもらいにいく

これが実に難しい.何かをしようとしたらまずはインターネットで検索して無料の情報を集めるような時代だから,わざわざ時間とお金を掛けて実際に人に習いに行くということは難しくなってきている.特に現状で不便なくこなせていく事に関して一歩踏み込んだことをやろうと考えたときに,プロに直接的に指導を仰ぐということをしなくなってきていると感じている.今のスキルでもなんとかなるんだから後は自分でどうにかやるよという気持ちでいると,どうしても自己流の要領の悪いままでいることになりがちだ.それを自己流に突き詰めていくという方向もあるのだが,そこまで独自性を出せる人はなかなかいない.それに労力をかけるだけの時間もない.だからまずは手っ取り早く人に教わることで,ある程度の水準まで一気に持ち上げてもらい,同時に型を経験することで目標や学び方を知ることができると思うのだ.そして今の僕には,そのモチベーションが欠けている.

LEARN from Rick Mereki on Vimeo.

そう,まさにこんな感じ.それにしてもこの動画は編集のおかげですっごい楽しく見えるんだけど,実際やってる最中とか未加工の動画を見ると案外つまんないんだろうなーと思うと,余計に習い事とか人に教わることが面白く感じてくる.実際やってみると何だこりゃってなるのがまあ普通だし,そのほうが色々と印象に残るし,やり終えた後の景色もさぞ違って見えることだろう.